敬意ある子育て≠受け身な子育て

子育てや保育において最も誤解されやすく、そして最も重要なことの一つは、敬意を持って子どもに向き合うということです。

 

「敬意」とは相手を尊重する態度を示す言葉で、言葉遣いや行動などに現れます。

 

「敬意ある子育て」という意識自体がまだあまりなかった一昔前は、厳格で懲罰的な躾や共感のない子育てが一般的でした。子育ての一環として、親のいう事を聞かない子どもには罰や恐怖心などを与えて子どもをコントロールし、どのように行動し振る舞うべきかを教える必要があると考えられていました。そして、子どもが親に敬意を持つことが当たり前に求められていました。このような子育ては現代では以前ほど一般的で顕著なものではないようですが、今も確実に存在している子育てのあり方です。

 

一方、現代によく見る子育ての在り方として、子どもとの衝突を避けるために何でもするという親がいます。まだ幼い子どもに優しくためらいがちな口調で「これでいい?」と尋ね、曖昧な制限を設けようとします。子どもと「うまくやっていく」、そして子どもには常に楽しく幸せな気持ちでいてほしいという思いから、その状態をできる限り維持しようとします。その時、常に思いやりを持って優しく、平和的な態度で子どもに接し、子どもと穏やかな関係であることが、子どもに敬意を持った子育てと混同されがちです。子どもと衝突することは親として恥ずべきことであったり良くないことと捉え、子どもに「それはしてはいけない」と伝えるべき状況でそう言うことをためらいます。子どもの希望に反することをすると、子どもからの愛情や信頼を失うのではないかという不安もあるかもしれません。

 

でも、幼い子どもはその成長過程において自分の意志を表現することも必要とします。子どもの中で成長しつつある意志を表現していくことは健全なことで、いろんなことを自分でやりたがったり、親の望むことに抵抗したりもします。そういう時、「うまくやっていく」ために親があやふやな態度で子どもに対応したり選択肢を与えすぎたりすると、子どもは境界線を感じられないまま、甘やかされた子どもに育ちます。子どもに「No」と伝えることが必要なときに、誠実に「 No」と伝えないままやり過ごしているうちに、子どもは要求したり、泣いたり、泣き言を言ったりすることが増えてきます。親としては、自分はこんなに子どもに愛情を注いで優しく、子どもの自主性を尊重しているのに、どうして親を困らせたり怒らせたりするようなことばかりするのだろうと困惑するでしょう。

 

一方、大人に健全な境界線を与えられて育つ子どもは、自分の思い通りに物事が進まなかったりした時、その状況に健全に対処して回復する力を育んでいきます。

 

小さな子どもを一人の人間として尊重し、彼らに自ずから成長する力があることを信頼し、彼らの自由な動きや遊びに介入しないこと。それはピクラーアプローチで推奨されていることですが、それは決して彼らに対して受動的で消極的であることと同じではないのです。一人ひとりの子どもを観察し、理解する−その行為は、側から見ると積極的に子どもと関わる大人の姿には見えないかもしれません。しかし、子どもを観察し理解しようとすることは、その子どもへの積極的な関心がないとできることではありません。観察から子どもへの理解を深めたあかつきには、それぞれの子どもの成長過程に合った対応ができるようになり、その子に必要な境界線を与えることもできるようになります。そしてそれによって子どもは安心感を感じながら成長していくことができるのです。(想像してみてください。自分の知らない世界で、どこまで行っても壁や塀のようなものがなく限界のない空間に放り出されていたら、大人だって不安になりますよね)