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ピクラーアプローチは赤ちゃんの時期だけ?
ピクラーアプローチって赤ちゃんの時期だけのものでしょ? という声を聞くことがあるが、 私の実体験からいうと、決してそういうことはない。 私がピクラーアプローチに最初に出会ったのは25年ほど前の話だが、真剣にピクラーアプローチを学び始めたのは長男が6歳、次男が3歳の頃。もう2人とも赤ちゃんの時期はとうに過ぎていた。 まだ独身だった頃にピクラーアプローチとシュタイナー教育を軸にしたデンマークの保育園で実習させてもらっていた経験から、なんとなく頭の片隅に残っていたピクラーアプローチを自分の育児の中に取り入れてはいたが、あの頃の私は実際にピクラーアプローチがどんなものなのかを理解していないまま、少しだけ知っていた知識を子育てに取り入れていただけだった。 でも、ある時を境に真剣にピクラーアプローチを習得し始めてから、仕事においての赤ちゃんや幼い子どもたちへの向き合い方のみでなく、我が子の子育てにも大きな変化があった。そして子育て以外でもパートナー、同僚、親、友人たちとの向き合い方にも変化が。ピクラーアプローチは乳幼児の発達への理解を深めるのみでなく、自分自身に関していろんな気づきをもたらしてくれたのである。その気づきを持って他者を観察しはじめると(良い意味でね)、その相手への理解と慈愛が深まる。そしてその在り方を尊重しつつ、協働するように対話し、行動する。 言うは易し行うは難し。もちろんいつでも簡単に事が運ぶわけではない。特に今は12歳と15歳になった息子たちに向き合う際、母としてこういう時はどうしたらいい?と試行錯誤することも多々ある。それでもピクラーアプローチの理解が自分の中にあるおかげで、私自身の心の中の軸はブレずに安定している。彼らが自分なりのやり方でいろんなことを学んでいく過程で、たとえば時に大海で荒波に揉まれることがあっても、彼らにとっていつでも戻ってきて一休みできる港であってあげたいと思う。

赤ちゃんが転ぶことについて
生後8ヶ月のレックスはハイハイをして移動する。ある日、レックスは15センチほどの高さがある台の上に初めて登った後、そこから降りようとした。しかし、床に片手を伸ばし、もう一方の手も伸ばして両手を床につけた体勢になった後、レックスはそこからどう先に進むことができるのか分からなくなった。体が前方に傾いていつもと異なる体勢の中、ハイハイする時のように片手を持ち上げて前へ進もうとすると体のバランスが崩れて転んでしまう。さあ、どうしよう、、、 体のバランス感覚を身につける過程では、時にバランスを崩す体験も必要なものです。自転車に乗れるようになるまでのプロセスを思い出してみてください。練習中にバランスを崩して何度も転びそうになった経験をした人は大勢いると思います。赤ちゃんが自分自身の体のバランス感覚を身につけ、自分の足で歩けるようになるまでのプロセスも基本は同じで、バランスを崩して転ぶ経験を一度もしないまま、座ったり、立ったり、歩いたりすることを学べる赤ちゃんはいません。ところがどういうわけか現代を生きる私たち大人は、赤ちゃんが転ぶということを自然に受け止めることが難しいようで、赤ちゃんが転んで痛い思いをしないように、怪我をしないようにということに神経を注ぎがちです。赤ちゃんが歩くことを身につけるまでのプロセスの中で、時にバランスを崩して転ぶことも必要なこととして受け入れることができたら、私たち大人も少し気持ちに余裕ができるのではないでしょうか。 さて、それでは実際に赤ちゃんが転んだ時、私たち大人がその子のためにできることは何でしょう。その子はびっくりしたり、驚いたりするかもしれません。小さなたんこぶができたり、唇から血が出たりするかもしれません。転んだ時に怪我をして痛みを感じたからではなく、びっくりしたが故に泣くかもしれません。その時、その子が抱っこして欲しがっていると決めつけてすぐに抱き上げる代わりに、その子のそばに行って、そっと穏やかな口調で自分が見たことを伝えてあげてください。「転んだのね。びっくりしたね。」そんなふうに見たことを伝え、その子の側にいてあげてください。そうすると赤ちゃんはしばらく泣いた後、自ら体勢を整えて再び自由に動き始めるでしょう。もしくは赤ちゃん自身が抱っこしてほしいと感じた場合、赤ちゃんはそれを自らあなたに知らせてくれるでしょう。 私たちが彼らの動きを(良かれと思って)助けるのを控えると、赤ちゃんは自らの動作に自分で注意を払う必要があることを学びます。赤ちゃんや幼児は動くことが大好きで、動いたり登ったりする中で自分の体のその時点での限界と能力を知ります。そして転んでもそれに挫けずに根気強く挑戦し続けます。動き方を学びながら、転んだ時には自然に手を前に伸ばして顔を守ることも学びます。逆に、赤ちゃんが転ばないようにと私たちが先回りして動くと、赤ちゃんは転ぶ前に誰かに受け止めてもらい、自分の安全を誰か他の人に確保してもらうということをすぐに覚えます。そうすると皮肉なことに、赤ちゃんは自分がどのように、どこに向かって動いているかに気持ちを集中する習慣がつかないので、最終的に身の安全性が低くなってしまいます。これは誤った印象を持たれるかもしれないので付け加えますが、赤ちゃんが動き回ることに関して私たちは無関心でいるべきという意味ではありません。赤ちゃんがバランスを崩して転んだとき、本当に大きな怪我にはつながらないような環境を整えておくことも重要です。そして赤ちゃんが動き回っている時、その子がバランスを保つことに集中し続けられるよう、私たちはできるだけ邪魔にならないように静かに、でも関心を持って赤ちゃんを観察することが大切です。そして、赤ちゃんが何かを必要とするときはそれを彼ら自身が教えてくれると信じ、赤ちゃんの合図を待つのです。 (*ピクラー親子教室では、子どもが自由に動き遊べる場所を提供するだけでなく、子どもが何を必要としているかを大人が学ぶことができます。ご興味のある方は info@flowparenting.jp までご連絡ください。)

敬意ある子育て≠受け身な子育て
子育てや保育において最も誤解されやすく、そして最も重要なことの一つは、敬意を持って子どもに向き合うということです。 「敬意」とは相手を尊重する態度を示す言葉で、言葉遣いや行動などに現れます。 「敬意ある子育て」という意識自体がまだあまりなかった一昔前は、厳格で懲罰的な躾や共感のない子育てが一般的でした。子育ての一環として、親のいう事を聞かない子どもには罰や恐怖心などを与えて子どもをコントロールし、どのように行動し振る舞うべきかを教える必要があると考えられていました。そして、子どもが親に敬意を持つことが当たり前に求められていました。このような子育ては現代では以前ほど一般的で顕著なものではないようですが、今も確実に存在している子育てのあり方です。 一方、現代によく見る子育ての在り方として、子どもとの衝突を避けるために何でもするという親がいます。まだ幼い子どもに優しくためらいがちな口調で「これでいい?」と尋ね、曖昧な制限を設けようとします。子どもと「うまくやっていく」、そして子どもには常に楽しく幸せな気持ちでいてほしいという思いから、その状態をできる限り維持しようとします。その時、常に思いやりを持って優しく、平和的な態度で子どもに接し、子どもと穏やかな関係であることが、子どもに敬意を持った子育てと混同されがちです。子どもと衝突することは親として恥ずべきことであったり良くないことと捉え、子どもに「それはしてはいけない」と伝えるべき状況でそう言うことをためらいます。子どもの希望に反することをすると、子どもからの愛情や信頼を失うのではないかという不安もあるかもしれません。 でも、幼い子どもはその成長過程において自分の意志を表現することも必要とします。子どもの中で成長しつつある意志を表現していくことは健全なことで、いろんなことを自分でやりたがったり、親の望むことに抵抗したりもします。そういう時、「うまくやっていく」ために親があやふやな態度で子どもに対応したり選択肢を与えすぎたりすると、子どもは境界線を感じられないまま、甘やかされた子どもに育ちます。子どもに「No」と伝えることが必要なときに、誠実に「 No」と伝えないままやり過ごしているうちに、子どもは要求したり、泣いたり、泣き言を言ったりすることが増えてきます。親としては、自分はこんなに子どもに愛情を注いで優しく、子どもの自主性を尊重しているのに、どうして親を困らせたり怒らせたりするようなことばかりするのだろうと困惑するでしょう。 一方、大人に健全な境界線を与えられて育つ子どもは、自分の思い通りに物事が進まなかったりした時、その状況に健全に対処して回復する力を育んでいきます。 小さな子どもを一人の人間として尊重し、彼らに自ずから成長する力があることを信頼し、彼らの自由な動きや遊びに介入しないこと。それはピクラーアプローチで推奨されていることですが、それは決して彼らに対して受動的で消極的であることと同じではないのです。一人ひとりの子どもを観察し、理解する−その行為は、側から見ると積極的に子どもと関わる大人の姿には見えないかもしれません。しかし、子どもを観察し理解しようとすることは、その子どもへの積極的な関心がないとできることではありません。観察から子どもへの理解を深めたあかつきには、それぞれの子どもの成長過程に合った対応ができるようになり、その子に必要な境界線を与えることもできるようになります。そしてそれによって子どもは安心感を感じながら成長していくことができるのです。(想像してみてください。自分の知らない世界で、どこまで行っても壁や塀のようなものがなく限界のない空間に放り出されていたら、大人だって不安になりますよね)